卒寿を迎えた私の農機化人生回顧⑦(元高知県農業試験場職員 /元久保田鉄工株式会社社員/元国際協力事業団専門家)山本 義輝

一.田植機の開発・普及に尽力=農機業界として残された大型製品開発は田植機だけといわれるようになった。昭和38年4月から私を含め5人で取り組むことになり、やがて順次補強され成功に至った。田植機開発の経緯は、週刊農機新聞(本紙)の文化欄に、題名『箱育苗ばらまきマット苗方式田植機開発50年の回顧』として、平成30年1月23日、30日、2月6日、13日付けの4回にわたり寄稿したので参照されたい。田植機普及初期は、育苗・稲作の講習会を実施することが重要で、私は米どころ東北の重点県として最初に秋田県を選び、有力販売会社の白石光弘サービス部長(現秋田県農業機械化協会会長)が立てた計画に従って実施した。皮切りは著名な寺尾博博士の育成耐冷品種「陸羽132号」の発祥の地、大曲だった。

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